徳川吉宗

徳川吉宗

徳川吉宗

略歴

徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。
父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により徳川秀忠の流れの徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍徳川家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八木将軍)と呼ばれていた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人となっている。

生涯

出世

貞享元年(1684年)10月21日、徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる(次兄は早世しているため三男と数えられることもある)。
母は紀州徳川家の召し使いで巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)。和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の目に止まり、湯殿において手がついたという伝説は有名である。
母の身分に問題があったためか、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られた。

紀州藩主の座

元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡に3万石を賜り、葛野藩主となる。父・徳川光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し頼方は次の間に控えていたのだが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。なお、葛野藩には実際には家臣を送って統治するだけで、吉宗は和歌山城下にとどまっていたと言われている。
宝永2年(1705年)に長兄・徳川綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、次兄・徳川頼職が後を継ぐ。しかし同年のうちに父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任する。
藩主就任時には将軍徳川綱吉から偏諱を賜り吉宗と改名。 宝永3年(1706年)に二品親王伏見宮貞致親王の娘・真宮理子女王を簾中(正室)に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別。 宝永7年(1710年)4月に紀州入りした吉宗は藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建をはかる。二人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。
また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも務める。 紀州藩主家代には女中との間に長男・長福丸(家重)、次男・小次郎(田安宗武)が生まれている。

将軍職

享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の男系男子)が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代将軍に就任したと一般的には説明されている(実際は、館林藩主・松平清武というれっきとした秀忠の男系男子・子孫が存在していた。しかし、館林藩領内は重税のため一揆が頻発していた上、本人もひとたび他家に養子に出た者でありすでに高齢で男子がいなかった(婿養子は存在)という事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心は、あまりなかったと言われている)。 一般論では家康と世代的に近いということで、吉宗が将軍に就任することになったと言われている。
しかし、御三家の格では上であった尾張家の当主が相次いで若くして病死したために吉宗が一番上の世代になった。そのため陰謀を疑う向きもある。
さらに徳川家宣の正室・天英院、あるいは家継生母・月光院の操作による幕閣の陰謀もあったのではないかとも言われている。 吉宗は将軍就任にあたって紀州藩を廃藩とせず存続させた。
過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府藩は、将軍の継嗣として、江戸城に呼び戻されると廃藩にされ、その藩士は幕臣となった。だが吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄弟の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士の内から大禄でない者を20数名(加納久通・有馬氏倫ら)選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた。

享保の改革

将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣時代からの側用人であった甲府藩出身の間部詮房や新井白石を罷免し、側用人政治から将軍親政に復した。 また紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。
また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。第4代将軍・徳川家綱時代から続いていた学問を奨励する文治政治を見直し、武芸を奨励する武断政治を志した。一方で年貢を五公五民にする増税政策によって、農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いたが、江戸幕府の三大改革の中で最も成功した物として高く評価されている。
吉宗の改革が無ければ、江戸幕府の崩壊はもっと早く到来したであろうとする意見も多い。 また、この頃近松門左衛門の人形浄瑠璃の影響で流行した心中を抑制するために、心中未遂で生き残った男女を人通りの多い場所でさらしものにさせた。 田安家、一橋家(両卿)を創設する(吉宗死後に、清水家が創設され、御三卿となった)。

大御所生活

延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・徳川家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。
なおこのとき、病弱な家重より聡明な次男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの、知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。 将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去。享年68(満66歳没)。 寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。
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