徳川家重

徳川家重

生涯

将軍になるまで

正徳元年12月21日(1712年1月28日)、御三家紀州藩の第5代藩主(後に第8代将軍)・徳川吉宗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。母は側室・大久保氏(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸(ながとみまる)。
父・吉宗に正室との間の子がいなかったため世子とされた。 父・吉宗が将軍に就任すると同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服する。
家重は生来虚弱の上、脳性麻痺とも推測されている障害により言語が不明瞭であった(『徳川実紀』には「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とある。)ため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。 言語不明瞭に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟・徳川宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く(一条兼香の日記『兼香公記』では「武道は修めるも文道に及ばず、酒色遊芸にふけり狩猟を好まず」とある。)、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。
このため、一時は老中・松平乗邑によって廃嫡されかけられたこともあった。しかし長子相続ということで、延享2年11月2日(1745年11月24日)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。
家重への将軍職継承は家重の長男・徳川家治が非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。

将軍として

家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、五代将軍・徳川綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立する等、幾つかの独自の経済政策を行った。しかしながら負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることが出来たため忠光を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。 大岡忠光は権勢に奢って失政・暴政を行なうことは無かったと言われる
。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に大岡忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・徳川家治に将軍職を譲って大御所と称した。 宝暦11年(1761年)6月12日、死去。数え年51歳。

官暦


享保9年(1724年)11月15日、将軍後継者となる。
享保10年(1725年)4月9日、従二位権大納言に叙任。元服し、家重と名乗る。
寛保元年(1741年)8月7日、右近衛大将を兼任。
延享2年(1745年)11月2日、正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
宝暦10年(1760年)
2月4日、右大臣に転任。
4月1日、征夷大将軍を辞す。
宝暦11年(1761年)
6月12日、薨去。
7月24日、贈正一位太政大臣

エピソード


家重は、正室に子どもが恵まれず、側室のお幸の方を寵愛した。やがて、長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし、家重はのちに、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく、酒にも溺れるようになった家重に、お幸の方は注意をしたものの、家重はそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。とうとう、側室との睦みごとの最中にお幸の方が入ってきたときに、癇癪をおこし、お幸の方を牢獄に閉じ込めてしまった。それを聞いた吉宗が、「嫡男・家治の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢獄から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。
「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」、「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(徳川吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と徳川実紀に記されている。つまり、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、何とか無事に平穏を保ったと言われているのである。
その一方で田沼意次や大岡忠光のような優秀な側近を見出して重用しており、井沢元彦は「人事能力は優れている」「隠れた名君である」と評し、徳川実記の評価を、脳性麻痺ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した田沼意次の低評価によるものとしている。
戦後、増上寺の改修に伴い、同寺境内の徳川将軍家墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行なわれている。死後、埋葬された歴代将軍の中でも家重は、最も整った顔立ちをしており、さまざまな行事で諸大名に謁見した際には、非常に気高く見えたという『徳川実紀』における内容の記述を裏付けている。にも関わらず、肖像画ではひょっとこのような顔で描かれている。これは顔面麻痺だったからこういう顔に描かれた可能性もあるという。
家重の歯には約45度の角度での磨耗が見られ、これにより、少なくとも乳歯から永久歯へと生え変わって以降、四六時中歯ぎしりを行なっていたとみ思われる。これはアテトーゼタイプの脳性麻痺の典型的症状としても見られる。家重は言語不明瞭であったと記録されているが、それはこの障害から来るものであったと推測されている。また頻尿は排尿障害で死因は、尿路感染、尿毒症のためと推測されている。
家重の血液型はA型であった。
頭蓋骨や骨盤が女性のような形であったことから、女性であったという説がある。
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