徳川家康

徳川家康

徳川家康

徳川家康 徳川家康は清和源氏の一族で征夷大将軍になれる一族である。徳川家康の父、松平広忠は三河の小大名で東に織田信秀、西に今川義元という巨大な勢力を持った大名がいた。
江戸幕府の初代将軍徳川家康は幼少のころのときの名前を竹千代という。
子供のころに今川家へ人質に出されるはずが織田の人質となった。しばらくして織田と今川の人質交換で今川の人質となった。
永禄三年、織田信長と今川義元との戦い、世に言う桶狭間の戦い。ことのとき竹千代(徳川家康)は今川のほうにつき織田方のとりでなどを次々と落としていった。しばらくして今川が負けたという報告を手に入れると、すぐに実家の岡崎へ帰った。 尾張の織田信長と同盟を結ぶと信長は西へ家康は東へ勢力を伸ばしていった。
武田勝頼との戦いで三千丁の鉄砲を使い、当時戦国時代最強といわれた武田の騎馬軍団を長篠の戦で倒した。
これを期に武田氏は衰弱の一途をたどっていくことになる。天正十年織田信長が家来の明智光秀に裏切られ本能寺で死んだことがわかると、堺を見物をしていた家康は伊賀越えで服部半蔵などの伊賀忍者などを頼りにして、浜松に逃げ帰った。

小牧長久手の戦い

信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。 4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣した。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。 これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送った。 天正13年(1585年)に入ると、紀伊雑賀党や土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされた。 また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥っていった。この事件で徳川家の軍事機密が筒抜けになったことから、軍制を武田信玄を見習ったものに改革していった。 天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し(諸大名の前で)秀吉に臣従することを表明した。

関が原の戦い

秀吉が生きているときは素直に従っていたしかし・・・その必要はもうなくなった。家康は動き出した。今まで秀吉が築いてきた法律などをことごとく破った。この家康の行いを悪く思った石田光成は家康と激しくぶつかり合いついに挙兵した。 会津にいた上杉景勝、直江兼続などが家康に敵対する姿勢をしていた。これを知った家康が上杉征伐をしに会津へ向かうがその途中で「石田光成挙兵」の知らせを聞いてすぐさま岐阜の関が原に陣を敷いた。8月10日、福島正則ら東軍は尾張清洲城に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。 9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死してしまった(杭瀬川の戦い)。 9月15日午前8時、美濃関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山の小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、東軍が形勢逆転した。戦いの最終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘軍が本陣目前にまで猛攻して来るという非常に恐ろしい経験もしたが、関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝利に終わった。 家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣家の直轄地)は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として豊臣氏を摂津・河内・和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。

征夷大将軍

関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は、神龍院梵舜に命じて徳川家の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。
なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓が源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは清和源氏でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする説がある。慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下し、家康を征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命した。征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。 3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行われたのは3月27日であり、この日をもって正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。家康は秀吉の死から4年半で、豊臣氏の五大老から武家の棟梁としての地位を手に入れ、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形勢挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。

大御所政治

慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲していくこと」を天下に示した。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。このことで、豊臣家の権威は大きく傷ついた。慶長12年(1607年)に駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。ただし、二元政治といっても、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年(1612年)の岡本大八事件、慶長18年(1613年)の大久保長安事件などが、それを如実に示している。慶長16年(1611年)、二条城にて豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで「岳父への挨拶」という名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の主君である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、秀頼の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感させられたとする見解もある。

大坂の陣

最晩年を迎えていた家康にとって、豊臣家は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとはいえ、豊臣家はなお特別の地位を保持して徳川の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名はほとんど豊臣恩顧の大名であった。また、家康将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。 さらに徳川家も内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠と松平忠輝は仲が悪かったし、将軍家でも秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のどちらが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタン信者の動向も不気味であった。もしこれらが豊臣家と手を結んで打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。家康はこの時期、主筋である豊臣家を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。 家康は、当初、徳川家と豊臣家の共存を模索しているようにも見せかけていた。諸寺仏閣の統制を豊臣家に任せようとしていた兆候もある。また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。
しかし、豊臣家の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣家は、徳川家との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の敗残兵であり家康に恨みを持つ者たちであり、打倒徳川の心情であった。 そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正や堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣秀頼は孤立を深めていった(あまりにも豊臣系の大名の死が相次いだため、徳川による毒殺説もある)。 そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣家を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。 そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正や堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣秀頼は孤立を深めていった(あまりにも豊臣系の大名の死が相次いだため、徳川による毒殺説もある)。 そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣家を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。

方広寺鐘銘事件

豊臣家は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつけた。その銘文は「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」というものであった。家康は、「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽。子孫殷昌」を豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。これは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。 さらに家康は8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた。その結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。 これに対して豊臣方は家老の片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康を翻意させるため弁明を試みようとした。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、片桐且元を大坂へ返した。片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣方は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に片桐且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は、豊臣家が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に豊臣方に宣戦布告したのである。 この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると弁明しており、上記のとおり、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している。 そのため、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為をいいがかりにしたという性格の方が強い。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂攻めの途についた。そして家康は20万からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うにとどめた。 11月19日、蜂須賀至鎮らの攻撃で、木津川口の戦いが行なわれ、徳川軍が勝利した。同日、向井忠勝ら徳川水軍の攻撃によって、豊臣水軍は敗れた。11月26日には佐竹義宣らに命じて今福・鴫野の砦を落とさせた(今福の戦い、鴫野の戦い)が、木村重成らの猛反撃を受けて辛勝するにとどまった。11月29日、家康は池田忠雄らに命じて博労淵砦の奪取を行わせた(博労淵の戦い)。 ところが守将の薄田兼相が遊女屋に泊り込んで留守にしていたため、あっけなく奪取した。このように徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。ただし、12月4日に行なわれた真田丸攻めでは、徳川軍は真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。 とはいえ、家康はこの程度の敗戦を気にすることもなく、12月9日に新たな作戦を始動した。
午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は、12月19日、家康に和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。 和議の条件は、大坂城の惣堀埋め立てと二の丸、三の丸の破壊である。12月23日から2日で惣堀を埋め立てた後、12月25日には腹心の本多正純に命じて大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立て慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

大坂夏の陣

豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとした。ところが、家康は、それを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始した。 これに対して豊臣方は、大坂城からの出撃策をとった。しかし兵力で圧倒的に不利な豊臣方は、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川方の大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁や毛利勝永らの奮闘もあって、一時は家康本陣の馬印が倒れ、家康自身も自害を覚悟するという危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川方により信繁・勝永らも戦死し、遂に大坂城は落城した。5月8日、豊臣秀頼と淀殿、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。 なお「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあるが、これは主筋であった豊臣家を滅ぼし非難されることを避けるための後の創作であるとも言われている。[要出典] その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川家によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟が閉鎖・放置されている。 明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも秀吉や信長が祀られるようになっている。

最期

元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、幕府の朝廷に対する統制と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川家による日本全域の支配を実現し、徳川家265年の天下を安泰なものとした。 元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。4月17日の巳の刻(午前10時ごろ)に駿府城において死去した。享年75。 死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説がある。鯛の天麩羅死亡説は、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌か梅毒と考えられている。尚、家康が問題の天麩羅を食べたのは田中城(現静岡県藤枝市田中)であった。辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」(『東照宮御実記』にこの二首が伝わる)を詠んだ。 なお、江戸城内においては天ぷらを料理することは禁止されていた。これは徳川家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされる場合もあるが、実際には、大奥の侍女のひとりが天ぷらを料理していて、火事を出しかけたために禁止されたというのが事実である。
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