徳川綱吉

徳川綱吉

生涯

江戸城に生まれる。幕府創業に尽力した2代将軍・徳川秀忠は祖父。
初代将軍・徳川家康は曾祖父。慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。
同月には将軍徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。
承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任。将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改め、館林藩主時代は松平姓を名乗る 明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)。
しかし創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される。寛文10年(1670年)に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢する。 延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣となる。 家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局酒井忠清の弟酒井忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。 綱吉は大老堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後国高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「左様せい様」と陰口された家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。
荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。 また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。
これは父家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している。
綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなどたいへん学問好きな将軍であった。儒学の影響で歴代将軍の中でももっとも尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえに修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公
家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増している。 また、のちに赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようだ。
綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳州・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代、儒学が隆盛を極めた。 綱吉の治世の前半は基本的には善政として天和の治と称えられている。 しかしながら、貞享元年(1684年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、
綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母桂昌院に従一位という前例のない高官を朝廷より賜るなど特別な処遇をした。
桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。 この頃から有名な生類憐れみの令をはじめとする後世に“悪政”といわれる政治を次々とおこなうようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとする説があったが、現在では、隆光や桂昌院と生類憐みの令の関係は否定されている。また、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。詳しくは同項目を参照のこと)。これらが幕府の財政を悪化させた。勘定奉行荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実施したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともありかえって経済を混乱させている。 嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、娘の鶴姫を嫁がせていた御三家の紀州徳川家の徳川綱教が候補に上がったが徳川光圀が反対したという説もある。宝永元年(1704年)、6代将軍は甥で甲斐国甲府藩の徳川家宣(綱豊)に決定する。
綱吉は宝永6年(1709年)に死去、享年63。 家宣が将軍になると「生類憐みの令」はすぐに廃止されたという。
しかし殺生である鷹狩りは、徳川吉宗が8代将軍になったのちまで復活することはなかった。ちなみに吉宗は天和の治をおこなった綱吉に対して敬愛の念を抱き、吉宗の享保の改革の中にもその影響がみられるといわれている。 7代将軍・徳川家継の大叔父で松平清武の叔父に当たる。8代将軍徳川吉宗とは、はとこにあたる。

生類哀れみの令

「生類憐みの令」は、そのような名前の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ぶ。「犬」が対象とされていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護された(綱吉自身犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたという)。 一般的に「苛烈な悪法」「天下の悪法」として人々に認識されているが、江戸時代史見直しと共に徳川綱吉治世の見直し論も起こり、この令も再検討されている。 江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)殺生を禁止する法令を制定した。 生類憐みの令が出された理由について従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきた。しかし最初の生類憐みの令が出された時期に、まだ隆光は江戸に入っていなかったため、現在では隆光の関与を否定する説が有力である。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあるが、これも隆光僧正の勧めとされているため、事実とは考えにくい。 当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。そのため単なる精神論を越えて監視社会化してしまい、この結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られる。 武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。
そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったようだ。 しかしこの法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家で水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話が残る。 地方では、生類憐みの令の運用は、それほど厳重ではなかったようだ。
『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は、魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでのあいだだけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい[1]。また、長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったようだ。長崎の町年寄りは、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた[2]。 この法令に熱心だった幕閣は側用人であり、中でも喜多見重政は、綱吉が中野・四谷・大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している。
この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる。 徳川家宣(綱吉の甥で、養子となる)は将軍後見職に就任した際、綱吉に生類憐みの令の即時廃止を要求したといわれている。継嗣がいなかったとは言え、綱吉はこの廃止要求を拒絶し、死の間際にも「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げた。が、綱吉の死後、宝永6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。この時、江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいたという。以降、江戸庶民の間に猪や豚などの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(1710年代)に現れている。 この「生類憐れみの令」は、幕府の権威の失墜につながらないよう、「徳川禁令考」など、幕府やその関係者が編纂した法令集からは意図的に削除されているともいわれている。

官暦


1653年(承応2年) 8月12日元服。同日従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。さらに、同月17日には正三位に昇叙。
1661年(寛文元年) 12月28日、参議補任。
1680年(延宝8年) 5月7日、将軍後継者となり、同日、従二位権大納言。ついで、8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。
1705年(宝永2年) 3月5日、右大臣
1709年(宝永6年) 1月10日、薨去。ついで、同月23日、贈正一位太政大臣。

人々からの評価

綱吉の行状については価値の低い資料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。 綱吉の治世下は、近松門左衛門井原西鶴松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。
前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。 綱吉の治世の評価が低いことについては、不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。
具体的には、元禄11年(1698年)の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上)や宝永4年(1707年)の富士山噴火などである。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時は「天罰」と受け止められてもいたしかたないものであった。
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