徳川家継

徳川家継

徳川家継

家系

第6代将軍・徳川家宣の4男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・月光院(お喜代)。
徳川の旧称、世良田を一時期称する。別名は世良田鍋松。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。
徳川15代の中で最年少で将軍になった人物である。

生涯

将軍になるまで

宝永6年(1709年)7月3日、第6代将軍・徳川家宣の4男として生まれる。家宣は子宝に恵まれず、正室・近衛熙子との間に生まれた豊姫は天和元年(1681年)に早世し、宝永4年(1707年)に側室・おこうの方との間に生まれた家千代も2ヶ月で早世し、宝永5年(1708年)に生まれた大五郎も宝永7年(1710年)8月に早世した。
正徳元年(1711年)にお須免の方との間に生まれた虎吉も早世し、家継だけが生き残った。 正徳2年(1712年)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日に家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に任せよ」というものと、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行せよ」と遺言したと折りたく柴の記には記されている。そして家宣が死去した。すると白石は、「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、家宣の遺言を無視する形で、白石は家継の擁立を推進した。
これに対して、幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「家継の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・徳川五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸(徳川家重)を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したとされる。こうして家宣没後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。

側近政治

家継は間部詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の治を続行した。
この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の間部詮房、顧問格であった新井白石らが主導している。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人であった月光院と独身の詮房の間にはスキャンダルが絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした絵島生島事件が起こるなどした。
家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞き訳が良いとして、その人格を認めていたという。
しかし幕政においては白石・詮房共に他の老中たちに押されぎみだったので、十分な成果は上がらなかったとされる。 正徳6年(1716年)3月、病の床に臥し、4月30日に死去した。死因は風邪が悪化したためとされる。享年8。 家継の死により、第2代将軍・徳川秀忠の系統は断絶し、第8代将軍には紀州徳川家より徳川吉宗が迎えられた。吉宗ははとこ大おじにあた
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