近衛基煕

慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女昭子内親王。実母は近衛家女房。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室昭子内親王の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へすすんだ。 いよいよ関白就任の一歩手前にまで迫ったが、1680年、基熈の後ろ盾とも言うべき後水尾法皇が崩御し、霊元天皇が親政をおこなうようになった。この霊元天皇は幕府嫌いで有名で、基熈も「親幕派」とみられて天皇から疎まれるようになる。そして1682年には関白職に右大臣一条兼輝を越任させるという贔屓の人事が行われ、以降基熈は霊元朝では干され続けた。1686年に辛うじて従一位を賜っているのみである。しかもその一方で、江戸幕府の方から好かれていたのかと言えば全くの逆で、時の将軍徳川綱吉は、自分の後継問題で緊張関係にあった甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の正室・近衛熈子(後の天英院)が基熙の長女であった事から、綱豊の舅である基熙に対しても冷淡であり、この時期はまさに沈滞期であった。 しかし1687年に霊元天皇東山天皇に譲位して、仙洞御所より院政を開始したのを見計らって、一条兼輝を失脚させることに成功。1690年(元禄3年)1月にようやく念願の関白に就任し、東山天皇治世の朝廷政治において権勢をふるい、霊元上皇が朝廷権威の復興を企図したのに対し、「親幕派」としてことごとくこれに反対した。また、東山天皇が成長すると、霊元上皇の院政を疎ましく考えるようになり、反対に基熙への依存を強めるようになる。また、幕府も霊元上皇の動きを警戒して、東山天皇への影響力を有する基熙との距離を縮めていった。 1703年自らの片腕だった鷹司兼熈に関白職と藤氏長者を譲り、1707年には長男の近衛家熈が関白・藤氏長者に就任する。また1704年、将軍綱吉は遂に男子誕生を断念して家宣を後継者として迎え、家宣と正室・熈子が江戸城に入った。1706年、綱吉・家宣の招待で摂家としては異例の江戸下向を行い、綱吉や家宣・熈子夫妻と会見する。その際、基熙は東山天皇が慶仁親王(後の中御門天皇)を後継に立てる意向である事を綱吉・家宣に伝えている。 1709年5月、将軍東山天皇は中御門天皇に譲位して院政を開始、10月には太政大臣に就任する。この座は豊臣秀吉が死去して以後長く空位で、江戸時代に入ってからは基熈が実質上初めての就任(実際には徳川家康秀忠父子が就任しているが、ともに実際の朝廷の政務に当たった事は無い)であり、東山上皇・徳川家宣双方からともに厚い信頼を受けていた基熈であったからこそ可能となった就任といえる。12月には健康問題を理由に太政大臣辞職している。ところが、その直後に東山上皇が疱瘡に倒れて基熙の太政大臣辞任からわずか9日後に崩御してしまう。