コンテツ:

後水尾天皇

後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。

系譜

後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子。 中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678)
第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)
第三皇女:昭子内親王(1625-1651)
第二皇子:高仁親王(1626-1628)
第三皇子:若宮(1628)
第四皇女:顕子内親王(1629-1675)
第六皇女:賀子内親王(1632-1696)
第七皇女:菊宮(1633-1634)
女御:園光子(壬生院)(1602-1656)
第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)
第六皇子:守澄法親王(1634-1680)
第十皇女:元昌女王(1637-1662)
第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)
第十三皇女:桂宮(1641-1644)
典侍:四辻与津子(?-1638)
第一皇子:賀茂宮(1618-1622)
第一皇女:文智女王(1619-1697)
典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)
第五皇女:理昌女王(1631-1656)
第五皇子:某(1633)
第八皇女:光子内親王(1634-1727)
第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)
第九皇子:性真法親王(1639-1696)
第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)
第十四皇女:理忠女王(1641-1689)
第十一皇子:穏仁親王(第三代八条宮)(1643-1665)
第十三皇子:道寛法親王(1647-1676)
典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677)
第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)
第十五皇女:常子内親王(徳川家宣正室近衛熙子の母)(1642-1702)
第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706)
第十六皇子:尊證法親王(1651-1694)
第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)
第十七皇女:永享女王(1657-1686)
典侍:四辻継子
第十二皇子:尊光入道親王(1645-1680)
第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680)
第十六皇女:文察女王(1654-1683)
宮人:水無瀬氏子
第九皇女:新宮(1635-1637)
第七皇子:性承法親王(1637-1678)

略歴

後陽成天皇はかねてから豊臣秀吉の意向で立てられた儲君・第1皇子良仁親王(覚深法親王)を廃して、自らの手で次期天皇を決める事を望んでいた。
だが、関ヶ原の合戦によって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。 慶長16年3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、南光坊天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は後陽成の死まで続いた。 江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで慶長20年7月17日(1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。 寵愛の女官四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が発覚すると、徳川秀忠は娘の和子の入内を破談にすると恫喝するが、近臣を処罰するなどの詫びを行い、元和6年(1620年)に徳川和子が女御として入内する。寛永4年(1627年)に紫衣事件、徳川家光の乳母である福(春日局)が無位無官で朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は同6年11月8日、二女の興子内親王(のちの明正天皇)に譲位した。
一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている。 以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(徳川和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の3天皇の生母(壬生院園光子・逢春門院櫛笥隆子・新広義門院園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(壬生院の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。