東山天皇

東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日)。
幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。 子孫には皇族以外にも、6世孫として大正期の元老西園寺公望がいる。

系譜

中宮:幸子女王(承秋門院)(1680-1720)
第一皇女:秋子内親王(伏見宮貞建親王妃)(1700-1756)
典侍:櫛笥賀子(新崇賢門院)(1675-1709)
第一皇子:一宮(1693-1694)
第二皇子:二宮(1696-1698)
第四皇子:寿宮(1700-1701)
第五皇子:慶仁親王(中御門天皇)(1702-1737)
第二皇女:福宮(1703-1705)
第六皇子:閑院宮直仁親王(第一代)(1704-1753)
典侍:冷泉経子(1678-1755)
第三皇子:公寛法親王(1697-1738)
掌侍:高辻(菅原)長豊の娘
第三皇女:光明定院宮(1707)
第四皇女:聖祝女王(1709-1721)

略歴

霊元天皇の第四皇子として誕生。天和3年(1682年)3月に儲君となり、12月に親王宣下があった。天和3年(1683年)2月に直仁親王(崇光天皇皇太子、南朝により廃される)以来300年ぶりの立太子礼を経て皇太子となる。
貞享4年(1687年)1月に元服し、同年3月21日に霊元天皇の譲位にともない践祚した。同年4月に即位式をあげた。さらに11月16日には長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた。この背景には朝儀復活や王政復古運動に尽力していた父・霊元天皇の意向が強く働いていた。 東山天皇の治世は23年に及ぶが、その全期を通じて父・霊元上皇が院政を敷いた。しかし1690年には幕府の後押しを受ける近衛基熙が霊元上皇の後押しを受ける一条兼輝を失脚させて朝廷政治の実権を掌握したため、その後、関白近衛基熙と霊元上皇の院政との間で「幕府との距離」をめぐって対立が深まった。
1694年、霊元上皇は政務の天皇への移譲を宣言するものの、実権は依然として上皇の手中にあった。更に1697年には母・松木宗子(敬法門院)の信任の厚かった議奏中御門基熙の更迭問題を巡って両親と対立して中御門の普段からの天皇軽視の言動に不快感を抱いていた近衛基熙との関係を強めた。その後、天皇は近衛基熙の補佐を受けて親政を遂行するようになる。 しかし東山天皇の在位期間はいわゆる元禄時代に相当し、犬公方とよばれた徳川綱吉の将軍在職期間と重なっている。徳川綱吉はことのほか皇室を敬ったため、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していた。この結果、御料(皇室領)は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。次の将軍徳川家宣は近衛基熙の娘婿にあたり、東山天皇−近衛基熙−徳川家宣のラインの完成によって朝幕関係はもっとも安定した時期を迎える。天皇の在世中には実現できなかったものの、天皇の皇子・直仁親王によって新宮家(閑院宮家)を設置するに至ったのもこうした良好な幕府との関係を抜きにして語ることは出来ない。 ちなみに1701年3月には、東山天皇が江戸へ派遣した勅使、柳原資廉・高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかるという松之大廊下の刃傷事件が発生する。しかし近衛基熙の日記には、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたとき、天皇はお喜びになられた旨が記されている。焼失した内裏の修理を行った浅野に対し、後西天皇に対する譲位圧力など幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう吉良義央を、東山天皇は憎んでいたのかもしれない。また、帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行った。 宝永6年、中御門天皇に譲位。父・霊元法皇を抑える形で自ら院政を開始するが、その後まもなく天然痘にかかって崩御。34歳。

在位中の元号

貞享 (1684年2月21日) - 1688年9月30日
元禄 1688年9月30日 - 1704年11月22日
宝永 1704年11月22日 - (1711年4月25日)