徳川慶喜

徳川慶喜

徳川慶喜誕生

天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。母は正室・登美宮吉子。幼名は七郎麿(しちろうまろ)。
男子は国許で養育するという斉昭の教育方針に則り、生後7ヶ月にして水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授されている。
慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、当初は斉昭も他家へ養子には出さず、長男・慶篤の控えとして手許に残そうと考えていた。

一橋家相続

弘化4年(1847年)8月1日、幕府より水戸藩に七郎麿を御三卿・一橋家の世嗣とする旨の台命が下る。 これを受けて七郎麿は9月1日に一橋家を相続し、
12月には12代将軍・徳川家慶から偏諱を賜わり慶喜を名乗る。 家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、
老中・阿部正弘の諫言を受けて断念している。

将軍継嗣問題

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。
慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。 一橋派は阿部正弘島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は徳川慶福と決した。
同年、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。
慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に不時登城し直弼を詰問するが、逆に不時登城の罪を問われ、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる。         

将軍後見職

万延元年(1860年)に謹慎は解除となる。
文久2年(1862年)、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使・大原重徳が江戸に入り、「徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を大老に登用すべし」という孝明天皇の勅命が下される。
7月6日、幕府は慶喜を将軍後見職、春嶽を政事総裁職に任命した。
慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。

将軍職

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は敗退。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・徳川家茂大政奉還。当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたと言われる。

戊辰戦争

しかし、倒幕を目指す大久保利通、岩倉具視の画策で、12月には王政復古の大号令が出され、慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた。慶喜は衝突を避けるべく大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて徳川の正当性を主張、さらに朝廷に運動して辞官納地を修正させて穏やかな形に直してもらう。翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩が江戸市中で行なった挑発に対して挙兵。会津・桑名藩兵を使って京都を封鎖するも、年が明けて1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、兵を置き去りにし、陣中に伴った愛人と共に軍鑑開陽丸で江戸へ退却した。慶喜がこのような行動を取った動機については幾つかの説があるが、今に至るも不明である。 間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(のちの徳川家達)に譲ることになった。 江戸総攻撃の前に行なわれた勝海舟と官軍参謀・西郷隆盛との交渉により、江戸城が無血開城されると慶喜の身柄は水戸へ移された。藩校弘道館の一室にて引き続き謹慎した後、7月には徳川家は駿府に移された。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。 以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は新政府によって廃止され、復活することはなかった。慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となった。

余生

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った前将軍とは違い、政治的野心は全く持たず、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくり、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。 明治30年(1897年)に東京・巣鴨に移り住む。翌年には皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年ぶりに政治に携わることになった。 明治43年(1910年)に嫡男・慶久に家督を譲って、貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。 大正2年(1913年)に感冒にて死去。享年77(満76歳と0ヶ月25日)は徳川歴代将軍の中でも最長命であった。
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