徳川家綱

徳川家綱

系譜

父は第3代将軍・徳川家光。母は側室のお楽の方(増山氏)だが、竹千代(たけちよ)の幼名を与えられ、世子とされた。 乳母は矢島局。正室は伏見宮貞清親王の娘・浅宮顕子。側室に養春院(お振)、円明院(お満流)。養春院、円明院の2人は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。

生涯

将軍就任

寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。 父の家光は、生まれたときから家綱を自らの後継ぎに決めていたという。
その理由は、家光と弟の徳川忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。 正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。
慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。 慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代将軍に就任し、内大臣に序せられた。
幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。 12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後(徳川慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。

治世前半

将軍家を継承したときわずか11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の由比正雪や丸橋忠弥らによる討幕未遂事件(慶安事件)が起こるなどして政情不安に見舞われた。 しかし叔父の保科正之や家光時代からの大老・酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら寛永の遺老といわれる名臣の補佐により、この危難を乗り越えた。
このため、以後は29年間にわたる安定政権をみた。 家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。
特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、さらに殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。 万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年(1664年)には1万石以上の大名に対する領地朱印状を、さらに寛文5年(1665年)には公家や寺社を対象とした領地朱印状を交付している。

治世後半

寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。
このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導のもと老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。
治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。また、この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家の御家騒動も発生している。 家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。 家綱の危篤に際して、酒井忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍が迎えられた例ならい、祖父・秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、堀田正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説がある。
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