岩倉具視

岩倉具視

幼少期

公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。幼名は周丸であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。朝廷儒学者・伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。 天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。 岩倉家は村上源氏久我家の江戸時代の分家であり、新家と呼ばれる下級の公家である。代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の公家同様に裕福ではなかったという

青年期

嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。 朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。

八十八卿列参事件

安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から批判をされた。 岩倉も条約調印に反対の立場であり、大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。九条関白は病と称して参内を辞退した。しかし、岩倉は九条邸を訪問して面会を申し込んだものの、同家の家臣たちは病を理由に拒否したが、面会できるまで動かなかった岩倉に対し、関白は明日返答する旨を岩倉に伝えた。岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたという。 3月20日、堀田は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。群臣とは岩倉ら反対派公卿のことで、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。岩倉による初めての政治運動であり、勝利であった。

安政の大獄

安政5年(1858年)6月19日、大老・井伊直弼が独断で日米修好通商条約を締結。27日、老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々と不平等条約を締結。さらに抗議した前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永らを7月5日に謹慎処分に処した。孝明天皇は8月8日に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下した(戊午の密勅)。このため、10月18日に水戸藩士・鵜飼吉左衛門を打首にするなど、尊攘派や一橋派に対する大弾圧安政の大獄を発動した。 岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。

和宮降嫁

安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、安政の大獄は収束して公武合体派が幕府内で盛り返した。4月12日には四老中連署で皇妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁を希望する書簡が京都所司代より九条に提出された。孝明天皇はすでに有栖川宮熾仁親王に輿入れが決定済みであるとして拒否し、和宮自身も条約破棄を暗に求める返事をした。 岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのときに天皇に提出された。内容は、天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものである。 孝明天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条関白を通じて京都所司代に伝えた。幕府としてはもはや和宮降嫁ぐらいしか打開策が無い手詰まり状態だったため、無茶だと知りつつ、ついに7月4日、四老中連署により「7年から10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって破約攘夷を決行する」と確約するにいたった。 文久元年(1861年)10月20日、和宮が桂御所を出て江戸へ下向。岩倉もこれに随行することとなった。東久世通禧の回顧録によると岩倉が和宮下向の支度を万事手配したという。また出発前には孝明天皇が随行する岩倉と千種有文を小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じた。すなわち岩倉は単なる随行員ではなく勅使として江戸へ下向することとなった。下級公家の岩倉が軽んじられず老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮であったという。 11月26日、岩倉は江戸城で久世広周や安藤信正といった老中と面会。ここで岩倉は孝明天皇の勅書の質問はもちろん、それとは別に幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいるという江戸市中の噂の真偽を問うている。老中らは下々のねつ造であると回答したが、そのような噂が市中で立ったこと自体不徳として陳謝し、老中連署の書状で二度とないことを誓うと答えた。しかし岩倉は譲らず、誓書を出すなら将軍家茂の直筆で提出せよと命じた。家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったのでさすがに老中たちはその場での即答を避けたが、結局3日後将軍家茂が誓書を書くことが岩倉に伝えられた。もちろん岩倉としても意味もなくこのような言いがかりをつけていたわけではなく、朝廷権力の高揚のためであった。

失脚

文久元年(1861年)には長州藩主毛利慶親が議奏の正親町三条実愛を通じて『航海遠略策』を孝明天皇に献策した。朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えたこの書は天皇から高い評価を受け、天皇は長州藩にこの書を幕府にも伝え公武周旋にあたるよう命じた。幕府にとっても悪い策ではなかったので12月30日には徳川家茂からも毛利慶親の江戸出府を待って長州藩に公武周旋役を任せる内定が下った。 そして文久2年(1862年)4月7日には孝明天皇が諸臣に対して先に幕府老中が連署で提出した10年後の攘夷決行をおこなう誓書を公表。もし約束の期日が来ても幕府が行動を起こさないなら朕みずからが公家と大名を率いて親征を実施し破約攘夷を行う、とまで宣言。 さらに4月10日には先の長州藩への公武周旋任命に危機感を募らせた薩摩藩の島津久光が和宮降嫁や安政の大獄の弾圧のせいで天朝が危機に瀕しているとして入京してきた。久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は完全に有名無実化した。その後、天皇は安政の大獄で処分された人々の復帰を幕府に命じ、幕府はこれを受けて7月に徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職として復帰させることを余儀なくされた。7月6日には長州藩京屋敷において毛利慶親が孝明天皇の悲願破約攘夷を実現させるために尽力・周旋をするという攘夷の立場を明確に藩論と定めると家臣たちに言い渡した。 こうしためまぐるしい情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井と親しくしていたことなどから尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。公卿正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出するにいたる。いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は逆らわず辞官して出家。朝廷を去った。

岩倉使節団

廃藩置県があった同じ日、岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任している。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。 外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていた。かつて井伊直弼が結んだ不平等条約日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところであった。しかし今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていた。そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことが政府方針として決まった。大隈重信らは国書の原案で延期の期限を3年としたが、岩倉は無期限とすべきとしたので国書には期限は設けられなかった。 使節団には外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文らを副使として伴い、明治4年(1871年)11月に横浜港をたち、1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡したが、条約改正の糸口はつかめなかった。 この旅の中で岩倉は各国で激しいカルチャーショックを受けた。 アメリカの近代国家ぶりは岩倉の想像をはるかに超えており、よほど衝撃的だったようで三条に宛てた書状にも「殷富を進むるにおいて意想の外を出るに驚嘆」とまで称している。さらにその原因は鉄道にあるとし、日本の繁栄も鉄道にかかっており日本の東西を結ぶ鉄道の設置が急務とする。岩倉が帰国後日本鉄道会社の設立に積極的に携わったのもそのためである。またイギリスでは日本では考えられない工業技術に圧倒された。もはや条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。

死去

だが岩倉自身は、伊藤博文の帰国、そしてその成果である大日本帝国憲法の制定を見ることはできなかった。 明治16年(1883年)初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていた。岩倉は、5月25日には京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、ここでますます症状が悪化してしまった。これを聞いた明治天皇は、勅命を出して東京大学医学部教授をしていたエルヴィン・フォン・ベルツ医師を京都に派遣した。岩倉は船で東京へ戻されたが、ベルツからは癌告知を受けた(岩倉は史上初めて「癌告知」を受けた日本人)。複数回の明治天皇の見舞いを受けたが回復せず、最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日、立憲政体樹立を目前にして死去することとなる。享年59
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