桜町天皇

桜町天皇

桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。

系譜

女御 二条舎子(青綺門院)(1716-1790)
第一皇女 盛子内親王(1737-1746)
第二皇女 智子内親王(後桜町天皇)(1740-1813)
典侍 姉小路定子(開明門院)(1717-1789)
第一皇子 遐仁親王(桃園天皇)(1741-1762)

略歴

享保13年(1728年)に立太子、同20年(1735年)に父帝の譲位により践祚。江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力と関白一条兼香の補佐を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注いだ。また、自ら「大日本天皇昭仁親王」と記していることから、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めていたことが窺える。 延享4年(1747年)桃園天皇に譲位して院政を開始するが、寛延3年(1750年)に脚気衝心により31歳で崩御。なお、徳富蘇峰の『近世日本国民史』以来、天皇が幕府の圧力によって退位したとする説があるが、実際には退位後においても積極的に政治や学問の振興策を主導しており、むしろ幕府からの干渉を避けるために院政による政治運営を行う狙いがあったと考えられている。ただ、院政を充実させるには残された3年という期間は余りにも短すぎるものであった。 神沢貞幹の『翁草』によると生まれが元旦でそのとき火事があり且つ実績も立派という共通点から聖徳太子の再来といわれ、歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ、御製は『桜町院御集』や『桜町院坊中御会和歌』としてまとめられている。また曽祖父・霊元天皇の御製を分類して『桃蕊類題(とうずいるいだい)』を残している。 絵画にも優れ、東京国立博物館にある「武者小路実陰肖像画」は重要美術品に指定されている。また、一乗院宮尊賞親王から入木道を伝授され、書にも優れた。

在位中の元号

享保 (1716年6月22日 - 1736年4月28日)
元文 (1736年4月28日 - 1741年2月27日)
延享 (1744年2月21日 - 1748年7月12日)