大政奉還

三条実美 実美は安政元年(1854年)、兄の公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な関係を持ち姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。 文久3年(1863年)には、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ京都を逃れて長州へ移る(七卿落ち)。長州藩に匿われるが、元治元年(1864年)の第一次長州征伐(幕長戦争)に際しては福岡藩へ預けられる。太宰府へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。また、その途中に宗像市の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊した。この間に薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の高杉晋作らが集まり、時勢を語り合った。 慶応3年(1867年)の王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。翌慶応4年(1868年)には副総裁。戊辰戦争においては関東観察使として江戸へ赴く。明治2年(1869年)には右大臣、同4年(1871年)には太政大臣となった。 明治6年(1873年)の征韓論をめぐる政府内での対立では西郷らの征韓派と岩倉具視や大久保利通らの征韓反対派の板ばさみになり、岩倉を代理とする。明治15年(1882年)、大勲位菊花大綬章を受章する。明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて内閣制度が発足したため、内大臣に転じた。 明治22年(1889年)、折からの条約改正交渉が暗礁に乗り上げ外務大臣の大隈重信が国家主義団体・玄洋社の団員に爆烈弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった黒田内閣は1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出した。ところが明治天皇は黒田清隆の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて内閣を存続させた。このとき憲法はすでに公布されていたが、まだ施行はされていなかった。諸制度の運用に関してはまだ柔軟性があり、天皇の気まぐれもまだ許容された時代だった。 実美は明治2年(1869年)に太政官制が導入されて以来、実権はさておき名目上は常に明治新政府の首班として諸事万端を整えることに努めてきたが伊藤博文の主導する内閣制度の導入によってこれに終止符が打たれたのはこの4年前のことだった。伊藤が内閣総理大臣に就任したことにともない実美は内大臣として宮中にまわり、以後は天皇の側近としてこれを「常侍輔弼」することになったのだがそもそも内大臣府は実美処遇のために創られた名誉職であり、実際は彼を二階へあげて梯子を外したも同然だった。さすがの明治天皇もこれを気の毒に思ったのである。 天皇が実美に下した命は「臨時兼任」ではなく「兼任」であり、しかもその後は何の沙汰も下さない日が続いた。天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのは実に2ヵ月も経った同年12月24日のことだった。そのためこの期間はひとつの内閣が存在したものとして、これを「三條暫定内閣」と呼ぶことになった。 しかしやがて憲法が施行され内閣総理大臣の「臨時兼任」や「臨時代理」が制度として定着すると、この実美による総理兼任の背後事情は次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日ではこの2ヵ月間に「内大臣の実美が内閣総理大臣を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣の延長」であって「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが時代の趨勢となっている。
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