光格天皇

光格天皇

光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月9日(1779年12月16日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱ははじめ師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)に改めた。

系譜

閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。母は、大江磐代(鳥取倉吉の大鉄屋岩室りんの娘)。即位の前日に危篤の後桃園天皇の養子になる。 中宮 欣子内親王(後桃園天皇皇女)(1779-1846)
第三皇子:温仁親王(1800)
第七皇子:悦仁親王(1816-1821)
典侍 葉室頼子(1773-1846)
第一皇子:礼仁親王(1790-1791)
第一皇女:能布宮(1792-1793)
第二皇子:俊宮(1793-1794)
典侍 勧修寺?子(1780-1843)
第四皇子:恵仁親王(仁孝天皇)(1800-1846)
第二皇女:多祉宮(1808)
第四皇女:成宮(1817-1819)
典侍 高野正子(1774-1846)
第六皇子:猗宮(1815-1819)
典侍 姉小路聡子
第五皇女:倫宮永潤女王(1820-1830)
第八皇女:媛宮聖清女王(1826-1827)
第八皇子:嘉糯宮(1833)
掌侍 東坊城和子(1782-1811)
第五皇子;桂宮盛仁親王(第九代)(1810-1811)
第三皇女:霊妙心院宮(1811)
掌侍 富小路明子(?-1828)
第六皇女:治宮(1822)
第七皇女:蓁子内親王(1824-1842)
第九皇女:勝宮(1826-1827)

略歴

元々は、閑院宮家から聖護院に入寺し、出家する予定であったが、安永8年(1779年)、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかった。そこで宮家から新帝を迎えることになった。当時、後継候補者として伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、先帝の遺児・欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前は貞敬親王を九条尚実は師仁親王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、血筋が近い師仁親王が選ばれ、急遽養子として迎えいれられて即位する。なお、この時に先々帝後桜町上皇は皇嗣継承のために伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就く事は無かった。 天明2年(1782年)、京都御所が焼失したとき3年間、聖護院を仮御所とされた。また、寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。 天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、北方での日露紛争の際には、交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。父に太上天皇の号を送ろうとして、幕府と尊号一件と呼ばれる事件を起こす。 多才で知られており、学問に熱心であり、また400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。 文化14年(1817年)に仁孝天皇に譲位し太上天皇となる(現在までこれが最後の太上天皇である)。天保11年(1840年)、崩御。69歳。
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